仏教のお話

仏教に関する住職の法話を掲載していきます。
仏教のお話①
仏教のお話②

信仰のかたち

仏教徒の信仰のあり方を身近な例から紹介していきます。
信仰のかたち①
信仰のかたち②

お寺の掲示板

門前の掲示板の言葉を紹介していきます。
こちらをクリック

- 目 次 -

  1. 法事の意味を教えて下さい
  2. 法事に僧侶は呼ぶべきですか?
  3. 「いいお寺」の選び方はありますか?
  4. お賽銭の金額はいくらが妥当ですか?

仏事Q&A①へ

法事の意味を教えて下さい

令和3年5月

 お葬式などと同じように、法事もとりあえずつとめるもの、呼ばれたら参列するものとして、法事は当たり前のようにあるものだと思います。ではこの法事の意味とは何なのでしょうか。
 もちろん、大きな意味としては故人の益々のご冥福をお祈りすることではありますが、法事は別の言い方で「追善供養(ついぜんくよう)」と呼ばれます。追善供養とは、故人がご生前に積まれた善行功徳にプラスして、さらに追って功徳を手向けるという意味です。法事では僧侶を含めご家族ご親族皆さんでお経を唱えます。また、僧侶の法話を皆さんで拝聴し、仏法僧のひとつであるお寺にお布施をします。そうした「善行」によって積み蓄えられた「功徳」を、僧侶の「回向(えこう)」によって故人にお届けする。そうすることよって故人があちらの世界で益々安らかになっていただけるよう願うのです。
 法事は、故人様のために自分たちが少しでも良い行いを積み、それをお坊さんに届けてもらうという儀式なのですね。皆様の大切なご先祖様が、ますます安らかでありますように。合掌

法事に僧侶は呼ぶべきですか?

令和5年12月

   何とも難しいご質問です。確かに「もう五十年の法事なので家族だけで手を合わせます」などと、家族だけでご命日にお参りなさることもありますね。それはそれで「ご先祖様を偲んで感謝申し上げる」という、法事のひとつの大切な目的を果たすわけですから大変意味のあることです。
 ただ結論から申しますと、僧侶を呼んだ方がはるかに善い法事と言えます。自己弁護をするわけではないですよ。
 前回の記事にも書きましたが、法事の意味は追善供養です。自分たち自身が善い徳を積んでご先祖さまのために手向け、故人のご冥福がますます安楽でありますようにと祈る。これが追善供養でしたね。僧侶と一緒にお経を読むこと、僧侶にお茶や食事を供養すること、僧侶の法話を聞くこと、お寺にお布施を供養することなど、そのそれぞれが仏教徒としての善行に当たります。法事の中では僧侶が「回向文(えこうもん)」を唱え、皆さんが積んだ徳をご先祖様に手向けるための儀式を行います。これが法事の肝要な部分になります。
 そういう意味では、冒頭のご質問は大変難しいご質問ではありますが、呼ぶ呼ばないどちらにも意味はあるものの「どちらかと言えば僧侶を呼んだ方がはるかに善い」というのが私の回答になります。つまり、僧侶も呼ばない、家族でもつとめない、そうしたことだけは絶対にないようにしましょう。家や自分は先祖というルーツあってのものですからね。

「いいお寺」の選び方はありますか?

令和7年10月

 仏事とは言えないかもしれませんが、せっかくのご質問ですので回答いたします。
 例えば、ある人気のあるお寺がありました。そのお寺はご住職の人柄もよく、サービスもよく、信徒(顧客)の要望を聞いて仏事を簡略するなどの対応を取られていて、世間的には大変評判のよいお寺さんでした。
 ある時、法要のお手伝いのためにそのお寺さんに伺うと、たくさん集まった参拝者さんの真ん中で、出鱈目な作法で導師をおつとめになるご住職のお姿がありました。もちろん、法要作法について参拝者さんは門外漢であり、その誤りは気づかれません。参拝者さんは「立派な法要」に満足をしてお帰りになったようです。
 また例えば法話が抜群に上手で、人を笑わせたり泣かせたりと感動させ、人を引き込む技量に優れたお寺さんがいらっしゃいました。お人柄もよく人をひきつける魅力のある方でしたので、周りにはいつも人が集まります。
 ある日、たまたまその方のご法話を拝聴する機会がありました。しかしそこで語られる法話は仏教の教理からは全くかけ離れたものでした。仏教ではないものを仏教の話として説いていらっしゃったわけですが、それでも聴衆の皆さんは「素晴らしい法話だった」と感動されていました。
 さて、このような「例え話」をお聞きになって皆さんはどのように感じられるでしょうか?
 たとえ出鱈目な法要で何の功徳もないとしても、サービスがよくお布施が安ければそれで構わないでしょうか?
 仏教の知識に乏しいどころか仏教でない話を説く「法話?」であっても、感動があってためになる話が聞ければそれで構わないでしょうか?
 出家僧侶である私の視点から「いいお寺」を申し上げるのであれば、それは「仏教の行学(修行と学問)に優れ、仏教に則った生活に励み、仏教に則って信徒を導いてくれる僧侶がいるお寺」です。
※ここで言う仏教とはスピリチュアルなものではありません。
 たとえ人付き合いに疎くとも、サービスがよくなくとも、信徒さんに無理な注文をされても、必要な仏事は決して曲げない、必要なお布施はお願いする。口達者でなく、聴衆があくびをするような話しかできなくとも、正確な仏教を語ることができる。
※真理を説く言葉は毛穴から入ってきます。
 そのような僧侶であってこそ、信徒さんとしてはお布施をする意味と価値があるのですから、もし「本当にいいお寺」を選ばれるのだとしたら、そのような視点を持つといいかもしれません。
 お寺が仏に尻を向け信徒にごまをすり、信徒が先祖に尻を向けお寺を値踏みする時代に、皆さまはどのような選択をされるのでしょう?
 物差しは人それぞれ。人柄の良さやサービス。現世利益のための霊的な力。純粋な仏教僧としての力量。はてさて。
 私自身も棚上げになってしまうことをここに懺悔し、結びとさせていただきます。

お賽銭の金額はいくらが妥当ですか?

令和7年10月

 お賽銭に限らず、お布施は「お気持ち」が基本ではありますが、いくつかの考え方をお伝えさせていただきます。
 まずは現実的なこととしてひとつ。数十年前頃は「お賽銭はご縁があるように5円玉」というような時代もあり、5円玉であったり、あるいは1円~10円くらいの金額がメジャーでした。しかしながら時代は移り変わっていきます。
 物価が上がっていることももちろんですが、数年前より硬貨の枚数によって銀行等の預け入れの手数料がかかるようになり、お寺や神社のお賽銭収入を直撃しました。例えば500枚で500円の手数料がかかるとしたら、1円玉を500枚賽銭箱に入れれば社寺は助かるどころか(労力や交通費で)損失を被ることになるということです。
 そういう意味では、むかしの古い基準を今もお持ちの方がいらっしゃれば、少し情報をアップデートした方がいいかと思います。お布施がお気持ちとは言え、お寺で言えば仏法僧の三宝の護持に貢献してこそ功徳は正しく積まれますので大事なところでしょう。
 また例えば1円玉を数枚入れて多大なお願い事だけを神仏に投げかけるとしたら、その方の「あり方」は正しいと言えるでしょうか。「神仏につかえる宗教者がお金の多寡を言うな!!」とおっしゃる方もおられますが、まずは自分の胸に手を当てて聞いてみてください。
 文字数の関係で最後になりますが私の具体例をお伝えします。私の場合、例えば普段の社寺詣りにでは100円~500円。氏神さんのお祭りの際には1000円(お花代は5000円)。毎年の結婚記念日などの節目には氏神さんに5000円の玉串料をお供えさせていただいております。私の場合はお寺の住職ということもあり「社寺の維持管理の一助となる金額」を意識しています。
 ひとつの参考になれば幸いです。